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鬼室神社・人魚塚

鬼室神社

2017年10月9日、石榑トンネルから滋賀県に入る。このトンネルの開通で鈴鹿山脈の横断が容易になった。道の駅「永源寺渓流の里」は開所2周年イベントで盛況だ。

立ち寄った甲津畑から西進し、県道508号で左折、立派な野神を見て南進、日野ゴルフクラブを通過すると広域農道となり石子山トンネルに入るが、その手前で「鬼室神社」の案内を見つけ、左折して小野集落へ向かう。そこにはバス停、住宅案内図、そして派手な建物があった。国際交流広場だという。鬼室神社は一段低い場所にあった。

写真1 国際交流広場 「集斯亭」写真2 国際交流広場案内書
写真3 鬼室神社写真4 鬼室集斯の墓碑といわれるものを納めた石祠
写真5 鬼室神社案内書

真偽が問題となっている鬼室集斯の墓碑は神社裏の石祠にある。滋賀文化財保護協会滋賀文化財だより No.204によれば、この八角形の石柱に文字が発見されたのは1805年(文化2)のこと。百済滅亡後に渡来した百済人・鬼室集斯の墓碑とされた。

帰宅して調べてみると、滋賀文化財だよりに引用されている司馬江漢のスケッチはこの石柱を「人魚塚」としている。司馬江漢は四日市で祭り見物後、湯の山温泉、伊勢神宮、鈴鹿峠、鎌掛を経由して日野に立ち寄り、「人魚塚」と石塔寺を見ている。

司馬江漢が立ち寄ったのは天明8年8月12日(1788年9月11日)。最初、四角形の塚に案内され、次に当時は不動堂と呼ばれていた鬼室神社へ案内されて八角石柱のスケッチを残した。スケッチは「西遊旅譚」と未刊本「江漢西遊日記」にある。滋賀文化財だよりは「江漢西遊日記」からの引用だが、「西遊旅譚」でも最初の四角形の塚を「救世菩薩の墳」、人魚を殺したところと書き、不動堂の八角石柱を「人魚墳」と書いて「文字不見」「文字あれども見えず」と解説を入れてはいるようだが。

人魚塚

住宅案内図には想定外のことに、小野集落の東端に「人魚塚」が書かれていた。気に留めていた京都新聞の「人魚伝説」を思い出したので行ってみる。

写真6 人魚塚写真7 人魚塚案内書
写真8 人魚塚写真9 六地蔵

「人魚塚」には歪んだ四角柱の石が建っていた。司馬江漢のスケッチに一致する。怪異・妖怪伝承データベースを検索すると1件でてきた

現場は川沿いだが、鈴鹿山脈の竜王山が東に迫る山間地であり、人魚に相応しい場所とも思えない。その塚に通行人が投石するような存在とは何者だったのか。案内書にある人魚から救世菩薩に至る説明は理解できない。人魚塚の東には六地蔵が祀られていた。狭い道だが県道525号線が西明寺に通じている。(Google Street View

西明寺(県道525号)

住宅案内図によれば西明寺へ行けるので県道525号に入ったが大失敗。無事に通過できたが二度と入らない。狭い林道を走行した経験はあるが、県道525号は最悪クラスだ。舗装されてはいたが、車底を痛めそうな場所がある。六地蔵からしばらくの間、車両の両側をササに擦られる。引き返すにも手遅れ。散らばる枯れ枝を踏みながら、すれ違い不能、転回不能の細道が続く。とにかく狭い。前方をサルが横断する。西明寺手前で二車線道に飛び出したときは生き返った気分だ。険道とは滋賀県道525号のことを言うのだろう。

写真10 西明禅寺写真11 西明禅寺にて

陽気な気分になり西明禅寺の門をくぐった。登山のときには前を通るが入ることはなかった。西隣の十二神社は十二所権現を迎えているとのこと。熊野の熊野権現社、蔵王の吉野山金峯社とともに綿向山周辺は大峰山の行者達の領域だったと改めて知る。

(作成 2017.10.10)